日本建築・日本の街を考えていきます。(岩井慎悟)


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群としての民家

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民家が一つだけ建つ場合は少なく、多くは群として存在します。
一見個々バラバラに存在しているように見える家も、少し広く眺めれば集落を構成していることに気づきます。
日本の街は、港町には港の周辺に、門前町には寺院・神社の参道沿いに、宿場町には街道沿いにそれぞれ民家が群として存在しています。
妻籠は中山道の宿場町の一つで、街ぐるみで街道沿いの建物の保存を進め、街道に面した建物のファサード(正面の外観)を幕末期の姿を復元し、かつての宿場町の姿を再現しています。
このような街並みは、かつてはどこの街にも見られました。個々の家はその存在を誇示せず、さりげない外観を見せる。しかし、連続させて眺める時、そこにその街の『顔』が出現する。
その『顔』は、住民たちが長い年月をかけ、その地域の風土や習慣の中で試行錯誤を繰り返しながら作り上げたものです。
江戸時代という封建の時代は個々の家が個性を主張することを許されなかったし、作り手である大工が同じものを繰り返し建てた結果そうなったに過ぎないかもしれません。
しかし、単なる偶然の所産と考えるのは正しくありません。
日本人の美意識がそこには反映されていることは間違いなく、当時の大工たちの技術とセンスがもたらしたものであることも忘れてはいけない。

人が集団で生活するとき、おのずとルールを必要とするように、家が群として存在するとき、どのようにあるべきか、長い間、人々は模索し続けてきました。
街並みや集落に現代の私達が見いだす美こそ、住居群のあり方に対する先人が獲得した解答なのかもしれません。
昔の街並み・集落の姿は、都市の住まい・住居群のあり方に対する新たな解答を求められている現代にも、示唆するところが少なくないように思います。

中仙道には、現在も妻籠の他、本山・奈良井・三留野・馬籠といった昔の面影を残す街があります。
3~4m幅の道の両側に、板葺、石置き屋根で格子戸が続く街並みを歩き、江戸の昔をしのびながら自分達の今の生活を再考してみるのもいいと思います。
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# by 100nenya | 2005-03-27 12:25 | 日本の街並みを考える

広間は百姓のシンボル

それまで農民の住まいは、名主階層でさえ10~20坪、一般の百姓で数坪から10坪程度しかなかった。それが、江戸時代初期の17世紀になると、明らかに規模が大きくなり技術的にも飛躍しています。
これは、本百姓の生活が安定したことと、15世紀以降、地方における大工技術の急速な進歩とその普及が背景にあったと考えられます。
実際にどういう形だったかというと日本昔話などに出てくるような感じで、「だいどころ」と呼ばれる土間空間に面してひろまと呼ばれる炉が切られた板間の今で言うリビングのような空間があり、そのひろまの奥に座敷と寝室(納戸)などの畳の間がある住まいです。
広間型と言われるこの間取り、自立した本百姓のシンボルであるかのようにこの時代から、全国に普及しました。
この農民の住まいの特徴として、一家の主はひろまのよこざと呼ばれる威厳ある座に座り、座り流しを背にしてかかざと呼ばれる座に座る主婦は家計をあずかる重要な役割を示していたとされるようです。
ソファーで寝転がるのも気持ちがいいですが、本当の意味で今の自分に自分の座がありますか?
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# by 100nenya | 2005-02-20 00:39 | 日本の家を考える
暮らしの舞台となる住まい。
そんな日本の住まいを中心に日本の建築、また日本の街並、そして日本建築の中の意匠についてこれから書いていきたいと思います。

さて、『日本の住まい』といっても、いつの時代から取り上げるべきか?
私たち日本人の祖先が、その生活の様子を明確に残すようになったのは縄文時代。
そのときの竪穴住居から書こうか?
それとも稲作が行われるようになった弥生時代からか?
それとも農民の住まいが竪穴住居から平地式住居に変わった飛鳥時代からか?
そんなことからいろいろ考えてしまうが、和楽社中の一つの考え方である『七和三洋』といったことからすると、あまりに昔すぎると身近に感じることも難しいので、僕の主観で江戸時代を中心にします。
そう、僕の考えの一つでもある『古き良き時代の普通の生活』。
そんなものが生まれていった時代から。
今日、私たちが、『和風住宅』と呼ぶ伝統的な住まいは、江戸の生活から生まれたものです。
それまでの時代は、公家や貴族、そして武士を中心とした時代だったとすれば、この200年続いた江戸時代からは、ある意味では農民や商人などの庶民階級が主役に躍り出た時代であったともいえると思います。
すいません、もう少し歴史の話を続けます。
江戸幕府はご存知の通り江戸を首都とした幕藩体制を確立しました。
幕府は全国に広大な天領(領地)をもち、公家や社寺、大名、旗本を従え、鎖国政策によって全国市場を掌握して中央統一政権をつくりました。
だけど、ご存知のように黒船が現れるまでの200年間続いた、このような社会秩序が作られたことによって、社会の安定と生産力は向上したが、自然経済の農村社会を商品経済に巻き込み、同時に城下町などの都市生活を向上させて、商人は資本を蓄え、その結果領主の財政を窮乏させる矛盾を引き起こした。
そのような背景の中で元禄文化などの町人文化が台頭。
田舎町に行けば僕たちが今でも目にすることのできる土蔵造りや塗屋造りの蔵が多く普及した時代です。
そんな商家の住まいは、当時の武家住宅である書院造りや茶室建築に影響を受けてつくられた数奇屋造りが普通でした。
当時、幕府の厳しい掟によって、贅沢な家作は禁止されていたにも関わらず、店の裏手には大規模で立派なすまいがつくられていたそうです。(やっぱり成金主義は今も昔もかわりませんね。)
そして当時の地方の農家の住まいはというと。
地方の農家も商家と同じで、村役人などを勤める家では、農業以外に肥料や造酒、質屋などを営み、資産を蓄え、家作にも、座敷には床の間や棚、付書院などがあり、接客を中心とする贅沢なものがつくられていきました。
また地方色豊かなすまいがつくられていったのもこの時代だと思います。
さて、そろそろまとめましょう。
ちょっと長々と歴史を書いてしまいましたが、住まいというのは、生活の中から生まれていくということ。それは当たり前の話なのですが、情報とモノに溢れてる現代、それがすごくあいまいになってしまってます。
その結果、私たちの時代にできた建物が何年もつでしょう?
ファッションのような感覚で住んだ家やマンションに、自分たちの子供やまた孫がずっと住み続けてくれるでしょうか?
谷崎潤一郎は、『陰翳礼賛』の中で次のように書いています。
「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの祖先は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全くの陰翳の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。」
どこかのテレビ局のリフォームの某テレビ番組の匠とか言ってる人に聞かせたいぐらいの言葉だ!

そんな歴史と、そんな歴史(時代)や風土の中でできていった住まいや暮らしから、良いものも悪いものも、また変わってしまったもの、変わらないもの、この島国で生まれ育った日本人の知恵や感性、人の欲望、そんないろんなものが見えてくればいいなと思っています。
そして、その中で現代の僕たちの暮らしを考え、自分たちのヒントが見つかっていけばいいと思い連載をはじめたいと思います。
(著・岩井慎悟)
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# by 100nenya | 2005-02-20 00:30